「社会にうるおい」広げたい 野渡 和義さん (ユースキン製薬社長)
2021年9月22日
手の荒れ止めハンドクリームで知られるユースキン製薬株式会社(神奈川県川崎市)は、AAR Japan[難民を助ける会]の活動を支える法人サポーターとして、国内災害の被災者支援に際してスキンケア製品をご提供いただいている。小さな薬局を営んでいた先代社長とひとりの女性客のやり取りから誕生したという同社の歩み、顧客や地域とのユニークな交流イベント、製薬企業としての社会貢献について、野渡和義・代表取締役社長に伺った。
(聞き手:AAR Japan 中坪央暁/2021年9月9日にインタビュー)
ひとりの女性客の声が出発点
――まずは御社の創業の経緯、主力製品のハンドクリーム発売から60年余りの歩みについてご紹介いただけますか。
野渡氏 当社は父の野渡良清・先代社長が1955年(昭和30年)に創業しました。農家の四男だった父は、尋常高等小学校を終えると薬局に奉公に出され、戦時中の出征を経て、戦後復興が進む京浜工業地帯の川崎に自分の薬局を開業しました。
店でお客を待つだけではなく、自ら御用聞きに回って注文を取る商売のやり方で、最初は需要が高かった殺虫剤の製造・販売を始めました。しかし、殺虫剤は主に夏場の製品なので、冬場に売れる製品がないか知恵を絞っていたようです。
そんな時、ひとりのご婦人が初冬に手の荒れ止めを求めて来店され、当時一般的だったワセリンを出すと、「やっぱりこれしかないのですか……ベタベタしてホコリが付くばかりで、効き目がないんですよ」と溜息をつきながら買って帰られたそうです。
がっかりする様子を見て、父は申し訳ない気持ちになったらしく、かねてお付き合いのあった乳化技術の専門家、綿谷益次郎さんに相談して、保湿力が高くベタつかないハンドクリームの独自開発に取り組みました。配合の試行錯誤を重ねて、1957年に売り出したのが、ヤシ油由来のグリセリンをベースに有効成分のビタミンB2、抗炎症成分のカンフル(しょうのう)を加えた「ユースキン」です。
ビタミンB2の発色で黄色く、スッとする香りのハンドクリームは、白色・無臭が常識だった当時としては異端で、薬局に営業に行っても「何だ、これはバターか?」などと言われて反応は良くありませんでした。それでも「とにかく試してほしい」と試供品を配って回るうちに、いつの間にか口コミで評判になり、店頭で「あの黄色いのください」とお買い求めになるお客様が増えたんですね。
ユースキンという社名や商品名は知らなくても、当初は不評だった黄色が逆にトレードマークになって、オンリーワンの商品として普及していったのです。
ちなみにユースキン(yuskin)という名前は「あなたの肌」(you-skin)という意味を込めて、英語を習ったことがない父がローマ字を独学して命名したものです。それなら正しくは“your skin”ですが、そう指摘しても父は「これでいいんだ」と言っていました。結局そのままユースキンとして親しんでいただいています。
全国の7割の薬局を回る
――2代目社長として経営を担っておられますが、仕事のうえで特に印象に残っている経験、教訓にしているエピソードがあればお聞かせください。
野渡氏 私が入社したのは1973年(昭和48年)、まさにオイルショックの年でした。トイレットペーパーがなくなるというウワサが流れ、買い溜め騒動が起きましたよね。
今でも鮮明に覚えているのですが、冬場を控えてハンドクリームが売れ始める11月頃、例年の3~4倍の注文が入って、新人営業マンの私は有頂天になりました。ところが、会社は増産しようとせず、どうしてなのか営業部長に尋ねると、「こういうのを『仮需要』と呼ぶ。お客様がオイルショックの影響で買い溜めに走り、薬局や問屋が品切れを恐れて余分に発注しているんだ」と言うんですよ。
実際に年が明けると、パッタリ注文が来なくなりました。増産していたら大量の在庫を抱えていた訳で、私自身「自分たちの努力以上にモノは売れない。無理に利益を追求してはならない」という教訓を得ました。
その後も全国に着実に販路を広げようと、北海道から九州まで4万軒件以上あった薬局を営業部員5人で手分けして、5年がかりで約7割の店を回りました。私も営業車に製品とサンプルを詰め込んで、フェリーで北海道や九州に渡り、それこそ日本中を走り回りました。大手メディアに広告を出す予算などありませんし、お客様に実際に試して効果を実感していただくのが一番の宣伝になるという思いで営業を続けました。
全国を回っていると地域性や県民性があって、冬場に湿度が高い日本海側よりも乾燥する太平洋側の方が売れる傾向があり、九州も思いのほか良く売れました。初めての商品でもすぐに置いてくれる地域もあれば、なかなか相手にされず苦労した地域もありましたね。
ユースキンは1985年に『暮らしの手帳』で紹介されるなど、順調に売上を伸ばしましたが、夏場の自社製品が薄いのが悩みでした。そこでドイツ製の化粧品、オランダ製の妊娠診断薬を輸入販売した時期もありましたが、これが大失敗で、在庫を持て余して一時は倒産寸前に追い込まれました。
思い切って経営体制を一新し、1988年に代表取締役に就いた私は、「情熱をもって販売できない他社製品は扱わない。売上アップだけを考えた押し込み販売はしない」ことを心に誓い、自社製品一本でいくことに決めました。その後、株や不動産投資などのバブル景気の時も、オイルショックの教訓もあって、世情に踊らされることはありませんでした。
「オリジナル格言」で愛用者と交流
――お客様との交流活動として、オリジナル格言選考会、「ハンドクリームの日」制定などユニークな取り組みをされています。その狙いは何ですか。
野渡氏 ことわざや格言が好きだった父は、年末になると日めくり式の格言カレンダーを取引先に配っていました。出入りの印刷屋さんが毎年提供してくれていたのですが、この業者が廃業してカレンダーが入手できなくなってしまいました。
どうしようかと思案していたところ、社員から「オリジナル格言を募集して独自のカレンダーを作ってはどうか」という提案があり、雑誌を通じて公募してみると、全国から1,000編以上の作品が寄せられました。これほど多くの応募作からカレンダーに載せる格言を選ぶのに四苦八苦しているうちに、今度は「お客様に選考してもらおう」というアイデアが浮かびました。
ありがたいことに、ユースキンには薬局の方が冗談半分で「信者」と呼ぶほどのご愛用者が全国におられ、「あかぎれが治った」といった礼状がよく届いたんですね。父は一通一通に手書きの返事をお送りしていたのですが、私は以前からそうしたご愛用者の皆さんと直接交流する場がほしいと思っていました。
そこで1999年、東京都内と近郊のお客様を選考委員としてホテルに招待し、第一回の格言選考会を開きました。これがたいへん好評で、翌年以降は大阪や名古屋などでも開催しました。もちろん、社員が製品について説明したり、ご意見・ご要望を伺ったりする貴重な機会にもなっています。
11月10日の「ハンドクリームの日」は2000年、一般社団法人・日本記念日協会に登録して制定しました。「11=いい/10=て(ん)」という語呂合わせですが、ちょうどハンドクリームが売れ始める時期でもあるんですね。
この日は「ハンドエキスポ」と題して、地元の川崎や工場がある富山のほか、東京、大阪、仙台、福岡など各地で、手肌のマッサージ法やクリームの効果的な使用法をお伝えする街頭イベントを社員総出で行っています。こうした取り組みを通じて、ハンドクリームの普及・販促だけでなく、「顔の見えるメーカー」として親しみを持っていただくことを目的にしています。
また、地元への貢献として、川崎市内の小学校で出張授業「ハンドクリームを作ろう」を2014年から実施しています。社員が先生役になって、水と油を混ぜる乳化技術を使ったハンドクリーム作りの理科実験を行い、子どもたちに楽しみながらハンドケアの大切さを学んでもらっています。
災害支援にスキンケア製品を提供
――御社には2017年の九州豪雨の被災地支援に際して「あせもシート」をご提供いただき、翌2018年からは法人サポーターとしてAARの活動をご支援いただいています。どういう経緯で当会を応援してくださることになったのでしょうか。
野渡氏 当社は高品質な製品を通じて「肌のうるおい、心のうるおい、社会のうるおい」を提供することを経営理念に掲げ、売上の0.1%を社会貢献に使う「ユースキンうるおい基金」を設けています。
子どもの虐待防止を呼び掛ける「オレンジリボン運動」などにも協力していますが、私が所属する川崎ロータリークラブでAARの柳瀬房子会長(現・名誉会長)が講演され、高い理念を持っていた政治家・尾崎行雄さんの娘である相馬雪香さんが創設した団体と聞いて、それなら安心して応援できると思って支援することになりました。
法人サポーターとして一番嬉しいのは、AARのフィードバックが非常に良いことです。寄付や製品の提供に対して、必ず「このように活用しました」という丁寧な報告をいただけるんですね。すべての団体がAARのように現場の様子を伝えてくれる訳ではありません。そうした報告をいただくと、自分たちの取り組みがどのように社会で役に立っているかを具体的に知ることができて、社員との共有も可能になります。
本社がある川崎区貝塚という所は、大人も子どもも参加する町内運動会が今も盛んな土地柄で、当社はハンドクリーム、リップクリーム、あせもシートを景品として提供するなど、地域に貢献できることに普段から取り組んでいます。その一方で、AARが実施する難民支援や障がい者支援のような海外事業に、当社が寄付を通じて参加できる点にも意義を感じています。
環境に配慮したリニューアル
――SDGs(持続可能な開発目標)の達成など社会課題の解決にとって、企業は最重要のアクターです。製薬企業として社会貢献の基本的な考え方をお話しください。
野渡氏 私たちは本業で何ができるかを常に考えていて、そのひとつが容器のプラスチックの削減です。当社は創業65年を迎えた昨年、ハンドクリームの容器デザインをリニューアルし、チューブ・ボトル・ポンプの3つのタイプをより使いやすく改良しました。クリームの使い残しが生じていたチューブタイプは、最後まで使い切ってもらえるように、キャップを取り外して指が入るデザインを採用しています。
ボトルタイプは手になじむ丸みのあるフォルムにすることで、プラスチック使用量を約8%、年間約12トンも削減することができました。ポンプタイプはワンプッシュで適量の1gが出るように工夫したほか、付け替えパウチを使ってもらえば、プラスチックの廃棄量はボトルと比べて88%もの削減につながります。
このリニューアルは、お客様の使いやすさと環境の両方に配慮した点が高く評価され、2020年度のグッドデザイン賞(主催:公益財団法人日本デザイン振興会)を受賞しました。
ユースキンの原点は、ひとりのご婦人の手荒れの悩みを聴き逃さず、創業者が自ら課題解決に乗り出したことにあります。そうした姿勢が多くのお客様に支持されて、ここまで順調に成長して来られたのだと思います。昨今は新型コロナウイルス対策として手洗い・消毒が励行され、結果的に手荒れに悩む方が増えていますが、そんな時代のニーズに応えることも、製薬企業としての当社の役割だと考えています。
ひとこと 俵万智の『サラダ記念日』と聞いて懐かしく思うのは、40代後半以上の世代だろうか。口語そのままの素直な歌風が斬新で、歌集としては異例のベストセラーになり、私も一冊持っていた。『熱心に母が勧めし「ユースキンA」という名のハンドクリーム』という歌があったことを改めて思い出したが、このような短歌がイケイケのバブル景気の真っ只中で流行ったというのも、今となっては不思議な気がする。(N)
中坪 央暁NAKATSUBO Hiroaki東京事務局
全国紙特派員・編集デスクを経て、国際協力機構(JICA)の派遣で南スーダン、ウガンダ北部、フィリピン・ミンダナオ島など紛争復興・平和構築の現場を長期取材。新聞社時代にはアフガニスタン紛争、東ティモール独立、インドネシア・アチェ紛争などをカバーした。2017年11月AAR入職、2019年9月までバングラデシュ・コックスバザール駐在としてロヒンギャ難民支援に従事。著書『ロヒンギャ難民100万人の衝撃』(めこん)、共訳『世界の先住民族~危機にたつ人びと』(明石書店)ほか。栃木県出身 (記事掲載時のプロフィールです)