特別インタビュー Interview

平和な世界で格好よく走り続ける 谷川 真理さん(マラソンランナー)

2021年11月16日

カフェ店内で微笑む谷川さん

谷川真理さん=東京都千代田区のMIZUNO TOKYOで

東京国際女子マラソンなど国内外の数多くの大会で活躍し、現在もマラソンランナーとして走り続ける傍ら、スポーツコメンテーターやタレント活動に取り組む谷川真理さん。地雷廃絶を呼び掛けるチャリティマラソンを開催し、2007年にAAR Japan理事に就任してからは国内災害の被災者支援などの活動にも積極的に関わってきた。そんな谷川さんに「走る理由」、マラソンを通じて社会に発信したい思いを聞いた。

(聞き手:AAR Japan 中坪央暁/2021年10月29日にインタビュー)


OL時代の皇居ランが原点

――谷川さんは最初から「プロのランナー」だったわけではなく、東京・丸の内のOL時代に皇居ランニングを始めたのがマラソンのきっかけなのだそうですね。

谷川氏 そうなんですよ。中学・高校では陸上部で主に中距離を走っていたのですが、とにかく練習が嫌いで大学や実業団には進まず、専門学校卒業後に丸の内の企業に就職して、ごく普通にOLとして働いていました。

バブル景気の時代で、週末サーフィンに行ったり、夜遊びしたり、それなりに楽しく過ごしていましたが、窓もないオフィスでデスク仕事を続けるうちに、エネルギーを発散できず、いつの間にかストレスが溜まっていたのだと思います。

元気にガッツポーズをする谷川さんと市民ランナーの方々

鹿児島県・佐多岬マラソンの市民ランナーの皆さんと谷川さん=2018年12月(谷川さん提供)

就職して4年目、CMで見た米国の女優のスタイルに憧れ、「あんな格好いいボディになりたい」という動機で家の近所で走り始めたのですが、大きなきっかけは同僚に誘われて昼休みに皇居に花見に行った時のことです。春の陽気の中、たくさんの市民ランナーがお堀端を走っていて、こんな身近に素敵なランニングスポットがあるんだと気付きました。

次の日、早速ウエアとシューズを持って出勤し、1周5キロの皇居ランをやってみたんですよ。強制的に練習させられるのは嫌だけど、自分の意思で好きなように走りたいという気持ちがあったのでしょうね。

それから毎日のように走っているうちに、男性ランナーに「いいペースで走ってますね」と声を掛けられ、「都民マラソン(東京マラソンの前身)で日本人トップになるとシドニーマラソンに派遣されるよ」と教えてもらいました。「ただでオーストラリアに行ける!」と意気込んで練習に励み、1988年1月の大会で日本人トップの3位に入賞して、シドニーに行くことができました。これで病みつきになったんですね。

この年の3月には市民ランナーとして名古屋国際マラソンで初めてフルマラソンに挑戦するなど、走る楽しさを知って練習にのめり込んでいきました。マラソンというとストイックな印象が強いと思いますが、私の場合は「ただで海外に行きたい」「格好いいボディになりたい」というのが本当の理由だったんです。

トップアスリートとして活躍

――市民ランナーから実業団に進み、東京国際女子マラソン(1991年)、パリマラソン(1994年)で優勝するなどトップアスリートとして活躍されました。他方、バルセロナ五輪(1992年)では惜しくも補欠代表に留まり、念願の五輪出場はかないませんでしたね。

谷川氏 レースで実績を積むうちに複数の実業団からお誘いいただいたのですが、コーチに指示されず自分で好きなように走りたかったので、お断りしていました。

資生堂だけは2~3の大会に出場することを条件に、練習は自由にやっていいと言ってくれたので、お世話になることにして入社しました。皇居ランを始めて4年、28歳で「プロのランナー」になったわけですが、その後も自分の原点である市民ランナーの仲間との練習は続けました。

沿道を走る谷川さん。後方に10名近くのランナーが見える

優勝した東京国際女子マラソンで先頭を走る谷川選手=1991年11月(谷川さん提供)

最初からプロだった他の選手には負けないという意識が強く、もっと強くなりたいと思って、常に自己ベスト更新を目指しました。それは自分との戦いでもあるのですが、自分の意思で自由に走れるのはとても幸せでしたね。初めて優勝したのは東京国際女子マラソンで、大きなレースで勝つ爽快感もたまりませんでした。

翌年のバルセロナ五輪の代表候補に名前が挙がり、「まさか、オリンピック行けちゃうの? シンデレラ・ストーリーみたい」と勝手に思ったりもしましたが、結局あと一歩のところで選ばれず、出場3選手のうち有森裕子さんが銀メダルをとりました。次のアトランタ五輪(1996年)を目指したものの、けがの影響もあって最後まで代表争いに絡めず、五輪代表にはなれませんでした。

もちろん、五輪には出たかったですよ。同じアスリートといっても、やはりオリンピアンは扱いが違うんですよね。その一方で、もし五輪に出場していたら、そこで燃え尽きてしまって走るのを辞めていただろうと思います。

たくさんの市民ランナーの皆さんが「一緒に走ろうよ」と励ましてくださって、自分でも走ることに悔いを残したくないと思い直すことができました。市民ランナーに戻って走り続ければいいんだと。その後は全国各地のレースにゲストランナーとして招待され、いろんな方に出会って喜んでいただいて、それが私にとって大きな喜びであり励ましになっています。

地雷廃絶運動との出会い

――AAR Japanが参加する「地雷禁止国際キャンペーン」(ICBL)が1997年にノーベル平和賞を受賞し、翌98年2月の長野冬季五輪の開会式では、AARが招待した英国の地雷廃絶活動家で義足ランナーのクリス・ムーンさんが最終聖火ランナーになりました。谷川さんは、クリスさんが箱根~東京間を走ったチャリティマラソンで伴走を務められ、そのご縁で2007年にAAR理事と地雷廃絶キャンペーン大使に就任していただきました。

沿道で国旗を手にする数十名の子どもたちに囲まれて走る2人

箱根~東京チャリティマラソンで義足ランナーのクリス・ムーンさんに伴走する谷川さん=1998年2月

谷川氏 1997年の東京国際女子マラソンは地雷廃絶をテーマに開催され、私は開会式で「自分には足があります。けれども、世界には地雷で足を失い、走りたくても走れない子どもたちがいます。私たちは彼らに代わって一生懸命走ります」と選手宣誓しました。その頃から地雷問題に関心を持ち始めたのですが、AARからクリスさんの伴走の依頼をいただいて、長野五輪開催中の1998年2月、チャリティマラソンを一緒に走りました。

土曜日の午後2時に箱根町役場前をスタート、途中少し休憩しただけで100キロ余りを夜通し走り続け、東京・赤坂のカンボジア大使館にゴールしたのは日曜日の早朝4時でした。

モザンビークでの地雷除去中の事故で右手・右足を失ったクリスさんは、どうしてもフォームのバランスが悪くて、間近で見ると義足と脚の接続部に血がにじんでいるんですよ。けれども、痛いとも言わないし表情も全然変えない。元軍人ということもあるのか、ものすごく精神力が強くて、正直言うとちょっと怖い印象さえありました。

最後は私のほうがバテ気味で、「絶対にあきらめない」というクリスさんに引っ張られてゴール。4~5時間仮眠をとった後、64カ国の在京大使館を訪ねて地雷廃絶のメッセージを届けました。あれだけ走った後なのに、クリスさんは疲れた様子も見せず精力的に各国大使と懇談し、どうしてここまでできるんだろうと不思議に思うほどでした。

カナダ大使館を挟む2人。クリスさんと大使館は手を握っている

カナダ大使館に地雷廃絶のメッセージを届けるクリスさんと谷川さん=1998年2月

ゴールは達成感とともに感動的なものを想像していたのですが、クリスさんはとても淡々とした感じだったので、「そうか、彼にとっては地雷廃絶こそが最終目標であって、こういうイベントは単なる通過点でしかないんだ」と気付きました。「たくさんの言葉を語るよりも行動すること」というクリスさんの言葉は今も心の中に残っています。

障がい者支援の現場を訪ねて

――2000~2015年に地雷廃絶を呼び掛けるチャリティマラソンを東京都内で開催され、AARにご寄付くださいました。また、AARが海外で実施する地雷被害者支援や障がい者の職業訓練などの視察で、パキスタン(2002年)、スーダン(2007年)、ミャンマー(2013年)を訪問していただきましたが、どんな印象を持たれましたか。

谷川氏 それまで開発途上国の経験が少なく、パキスタンでは銃を持った護衛付きで移動したりして、とても緊張しました。安全が確保されたエリアで、早朝に少しだけジョギングしたのですが、山々から昇る朝日がびっくりするほど美しかったのと、スカーフを被ったイスラム教徒の女性が私を不思議そうに見ていたのを思い出します。屋外を走っている女性なんて見たこともないので、きっと驚いたのでしょうね。

義足を手に、現地の方々に寄り添う谷川さん

ミャンマーの地雷被害者を訪ね、義足を手に話を聞く谷川さん=2013年9月

スーダンでは紛争や地雷の被害で亡くなったり、手足を失ったりした人々がたくさんいることにショックを受けました。市街地を車で移動中、交差点で止まった時に義足を付けた女の子が物乞いに来て、おカネをあげてしまうのは簡単だけれど、それでは何の解決にもならず、どうすればいいんだろうと戸惑うしかありませんでした。この子たちの境遇に比べて日本は何て平和なのか、私たちは何て恵まれているのかを思い知らされました。

ミャンマーのヤンゴンでAARが運営する障がい者向けの職業訓練校は、特に印象に残っています。地雷の被害者を含めて、不自由な身体にもかかわらず上手にミシンを踏む洋裁コースの生徒、ハサミと櫛を持って講師の手元を真剣に見つめる理容美容コースの生徒、片手がなくもう一方の手でパソコンを操るコンピュータコースの生徒……自立するために技術を身につけようと一生懸命に取り組む姿に胸がいっぱいになりました。

途上国の障がい者の皆さんは自分で働いたり、社会に参加したりする機会が非常に乏しいので、AARの支援で仕事に就くきっかけを得られるというのは、本当に素晴らしいと感じました。運営資金など何かと苦労されていると伺いましたが、こうした施設が長く存続していることに大きな意義があると思います。

国内の被災地で炊き出し

――国内では東日本大震災(2011年3月)被災地でマラソン教室やリレー大会を開催し、西日本豪雨(2018年6~7月)などの現場でも炊き出しをしていただいています。被災者の方々と接して、どんなことを感じていますか。

スープをよそって被災者に手渡そうとする谷川さん

西日本豪雨に見舞われた岡山県倉敷市の避難所で炊き出しをする谷川さん=2018年7月

谷川氏 東日本大震災の2カ月後、宮城県内の避難所を訪ねてスポーツイベントを開いた時は、子どもからお年寄りまでたくさんの方が参加され、ストレッチ教室では慣れない姿勢に皆さん四苦八苦しながらも、「久しぶりに身体を動かしたよ」と、ひと時を楽しんでいただいた様子にほっとしました。

ジョギングやリレーでは、震災でつらい思いを抱えていた子どもたちが、私と一緒に元気いっぱい走ってくれて、こうした取り組みによって被災者の皆さんの気持ちを少しでも明るくできればと願わずにはいられませんでした。

被災地に行くと、私はいつも「炊き出し、おいしかったですか」程度のことしか言えないんですよ。自分で災害を経験した方でないと本当の辛さは分からないというか、こちらからいろいろ尋ねたり励ましたりするのは申し訳なくて、相手の方が話してこられればお聞きするという感じです。

その一方で、どんなに苦しいこと、悲しいことがあっても、人は立ち上がって前向きに生きていかなければならないことも、また事実です。落ち込んでばかりではなく、時にはジョギングやストレッチをしてみたり、温かい食事をとったりすれば、それだけで血液循環が良くなって、身体と脳が活性化され、マイナス思考をプラスに変えることができると信じています。

谷川さんの後方に子どもたちが続々と続いて走っている

宮城県石巻市のマラソン教室で子どもたちと走る谷川さん=2011年5月

一般的な話になりますが、ネガティブ思考に捕らわれて精神的に参っていた人がランニングを始めたところ、プラス思考で心身ともに元気になったという事例はたくさんあります。走ることは気持ちを切り替え、心身ともに健康になり、人生を変えてしまうくらいの効果があると考えられるのです。

東京五輪・パラリンピックで感じたこと

――2021年は新型コロナウイルス感染が続く中、東京五輪・パラリンピックが開催されました。開催をめぐる論議もありましたが、アスリートたちの躍動は大きな感動を呼んだと思います。谷川さんはどのようにご覧になりましたか。

谷川氏 東京大会は残念ながら異例の無観客開催になりましたが、多くの人々がテレビ観戦を通じてアスリートを応援し、全力を尽くす姿からたくさんの勇気と感動を受け取ったのではないでしょうか。特に普段は多くの観客の注目を集める機会が少ないパラアスリートにとって、4年に一度のパラリンピックが開催された意義は非常に大きかったと思います。選手たちはそこを目標に努力を続けてきたわけですからね。

パラリンピックでは「こんな競技があるのか」という初めて観る種目もあって、多彩なパラスポーツの面白さを広く周知することができたと思いますし、選手たちのエネルギーをまさにオンタイムで感じて、障がいの有無にかかわらず「自分ももっと頑張らなきゃ」と思った方は少なくないのではないでしょうか。

今回のオリ・パラ開催が、とりわけ障がい者スポーツの環境づくりのきっかけになることを願っています。パラアスリートが利用しやすい施設整備はもちろん必要ですが、例えば車いすマラソンを誰でも体験できるように、各地の運動公園で陸上競技用車いすを貸し出したり、それで走行できるコースを設けたり、子どもをはじめ一般の人たちがパラスポーツに親しみ、理解を深めるというアイデアもあります。

実際に競泳・トライアスロンのパラリンピアン、木村潤平さんたちが中心になって、パラアスリートによる学校訪問などパラスポーツ振興のプロジェクトが動き始めており、私もご協力させていただいています。

走ることで人生まで変わる

――最後に谷川さん自身が走り続ける理由、市民ランナーの皆さんへのメッセージをお聞かせください。

谷川氏 「いつまでも格好よく走り続けたい」と思っていますが、私自身はマグロやカツオのような回遊魚みたいなもので、止まると酸素を取り込めなくなって、元気がなくなってしまうんですよ(笑)。私は市民ランナーとしてマラソンを始めたので、たくさんの仲間とこれからも走り続けたいというのが今の願いです。

市民ランナー数十名と谷川さんが元気に手を挙げている

谷川真理クリスマスマラソン(東京都江東区)に参加した市民ランナーの皆さんと=2018年12月(谷川さん提供)

2007年に始まった東京マラソンのような都市型マラソンが普及した影響で、市民ランナーの裾野が近年急速に広がっています。走り始める理由は、それこそ健康維持やダイエット、ストレス解消などさまざまですし、がんを克服するために走っているという方もおられます。

フルマラソン出場を目標に練習に励むランナーもいれば、長くゆっくり走れればいいというランナーもいて、人それぞれの楽しみ方があります。コロナ禍の巣ごもり生活がきっかけで最近走り始めた方も少なくないようですね。

私は正しいフォームや練習の仕方、レース時の注意点などをアドバイスしていますが、マラソンは自分なりの目標に向かって自分のペースで取り組み、達成感と充実感を体感できるスポーツだと思っています。続けるうちに身体と精神、日々の生活、さらに自分の人生まで変わっていくことが実感できるはずです。

「走りたい」と思ったら、まずシューズを買って、最初は家の近所のウォーキングでもいいので始めてみてください。きっと新しい風景が見えてくると思います。

※見出し写真:仙台国際ハーフマラソン(2018年5月)で女性ランナーたちと走る谷川さん=同大会提供

ひとこと 週末2時間のウォーク&ジョグを習慣にしている。本格的に走るわけではなく、ちょっとハードな散歩という程度だが、一番の楽しさは季節の移ろいを体感できること。四季の花々はもちろん、東京の住宅街に夏みかんや柿、びわ、ザクロなどの果樹が意外に多かったり、公園や川沿いで何種類もの野鳥を見かけたり、何かと発見がある。コロナ禍で旅行やイベントが制限された影響か、この1年余り同好の士が少し増えた印象あり。(N)

中坪 央暁NAKATSUBO Hiroaki東京事務局

全国紙特派員・編集デスクを経て、国際協力機構(JICA)の平和構築事業に従事。東ティモール独立、アフガニスタン紛争のほか、南スーダン、ウガンダ北部、フィリピン・ミンダナオ島など紛争・難民問題を長期取材。2017年11月AAR入職、2019年9月までバングラデシュ・コックスバザール駐在としてロヒンギャ難民支援に携わる。著書『ロヒンギャ難民100万人の衝撃』(めこん)、共訳『世界の先住民族~危機にたつ人びと』(明石書店)ほか。 (記事掲載時のプロフィールです)

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