江戸っ子はふつうに助け合っていた 古今亭志ん輔さん(落語家)
2022年3月1日
落語家の古今亭志ん輔さんが話芸の世界に飛び込んで、今年でちょうど半世紀。真打として長く高座を務める一方、NHK教育番組『おかあさんといっしょ』に15年間レギュラー出演するなど、親しみやすいキャラクターで落語の魅力を発信してきた。ひょんなご縁でAAR Japan[難民を助ける会]に遊びに来られた志ん輔師匠に、新型コロナウイルス感染が続く中で日々思うこと、高座から見える風景などを存分に語っていただいた。
(聞き手:AAR Japan 中坪央暁/2022年2月1日にインタビュー)
「どれだけ外で飲んでたか」コロナ禍で気付く
――落語をはじめ芸能活動はこの2年間、コロナ禍の多大な影響を受けてきました。寄席の休業も相次ぎましたが、どんなふうに感じておられますか。
志ん輔師匠 いや~、だんだん気力がなくなっていきますよ。感染が始まった頃は、誰もがそうだったように状況がよく分からないし、まあ何とかなるだろうくらいに考えてました。でも違った。毎年春から秋にかけて独演会が何度かあって、それに向けて稽古するんだけど、緊急事態宣言が出て中止、また稽古してまた中止の繰り返し。その度に少しずつ気分が落ち込んで、浮き沈みのベースが下がっていくんですよねえ。
「自分の芸を見直す時間になった」と言ってる人もいるって? それはないなあ、私の場合、そんなのウソでしょ。落語っていうのは人前でやってナンボ。ただ稽古して覚えるんじゃなくて、高座でお客さんの反応を見ながら、こうやって、ああやってと練っていかなきゃならない。それができないっていうのは本当に困るし、何だかくたびれちゃう。
言いたくないけど、芸人も悪いんだよね。招待券とか割引券もらったので寄席に行ってみようみたいなお客さんがコロナでごっそり減って、本当に聞きに来てくれるお客さんが少しいるだけってことになると、噺家の中にも気合が入らない者がいて、ますます芸がいけなくなります。高座から見てると、お客さんも「こんな時だから笑わせてほしい」って、こちらに半ばすがるような気配があるけど、心から笑えないっていうか、どこか病んでいる感じが伝わってきますよ。みんな疲れてるんでしょうね。
独演会などの仕事がなくなると、もちろん収入もゼロになるんだけれど、今のところ収支は案外トントンってとこで、貯えはそれほど目減りしていないんですよ。何でだろうと考えて、ああ、今までどんだけ外で飲んでたのかと気付きました。稼いだおカネは全部飲んじゃってたんだなあということが、今さら明らかになったわけです。何とか早く収束してほしいなと思いますけどね。
玉子食べて怒られた修業時代
――10年ほど前は『ケータイ日記』、最近はブログ『日々是凡日』を毎日欠かさず書かれて、その日何をしたか、きっちり時刻まで記録されていますよね。あれを読むと、ご自宅でグラタンのソースを作ったり、アップルパイを焼いたり、結構凝った料理をされることも分かって、師匠の日常生活が丸見えです。
志ん輔師匠 日記を書く習慣なんてなかったんだけど、10年余り前、お付き合いのある装丁家の平野甲賀さん、公子さんご夫妻から「日常をつづった本を出さないか」とお声がけいただいたのがきっかけです。
こんなもの誰が読むんだろうと思いながら、携帯電話のメモ機能を使って、電車で移動中なんかに、朝起きてから寝るまで誰に会ったとか、どこで何を食べたとか出来事を記録するようになったんですよ。実際に本が出版され、そのうちブログが普及してきたので、そちらで書くようになって、今では日常の習慣になっています。
料理はね、入門して前座くらいまでは作ってましたが、本格的にやるようになったのはコロナが始まってからなんですよ。外出が減って朝昼晩食べてるだけだと、メリハリがなくなってボ~ッとしちゃうので、仕事とは別に集中できる時間がほしくなって、かみさんに「料理するよ」って言って。かみさん、最初はちょっと嫌がってましたけどね。
今はスマホで簡単にレシピを検索できるので、スマホ片手にやれば案外ちゃんと作れる。出汁の取り方、味付けの仕方など基本さえ分かれば、後は自分でアレンジすればいい。料理してる時は集中できるし、良い気分転換になります。
二つ目(前座と真打の間)の頃はお客さんが良い店に連れて行ってくれたりして、多少は味が分かるようになったけど、自分がグルメだなんて思ったことはありません。
食事と言えば見習い時代、師匠のお宅で兄弟子とインスタントラーメン作って玉子を1個入れたら、お内儀さんに「ダメ!」と怒られましてね。そんな贅沢しちゃいけないよと。何だか理不尽な話に聞こえますが、他の師匠のとこも同じだったようで、要するに我慢するのに慣れることが修業だと教えられました。最近の弟子にそんなこと言っても理解しやしないけどねえ。
志ん朝『火焔太鼓』に〝ひと目ぼれ〟
――1972年に三代目古今亭志ん朝(1938~2001年)に入門されました。高校生の時に志ん朝師匠の『火焔太鼓』を聞いて、迷わず弟子入りを決めたそうですね。もともと落語家志望だったのですか。
志ん輔師匠 私は大崎(東京都品川区)の生まれですが、子どもの頃は国鉄職員だった父の転勤で門司、下関、広島、新宿、練馬と引越しの連続でした。父は家ではいつも真面目な顔して新聞を読んでいる勤め人で、自分はこういうふうにはなれないだろうと子ども心に感じていましたね。何か別の道を探さなきゃいけないなと。
落語に詳しいわけでもないのに、高校で落語研究会に入ったんですが、ある時、先輩にチケットをもらって、地元の公会堂で開かれた落語会を聞きに行ったんですよ。その頃の私はテレビに出ているような芸能人とかタレントが大嫌いで、よく知りもしない志ん朝師匠のことも「へっ、なんでえ」という感じで構えていたのですが、高座に上がった志ん朝の輝くようなオーラ、ぐいぐい押してくる『火焔太鼓』の語り口にあっという間に魅了されちゃってね。
その場で「この人の弟子になる」と決意しました。その後、何度も楽屋に押しかけるうちに入門を許され、高校を卒業して本格的に見習いを始めたわけです。向き不向きなんて考えもせず、ただ、引き絞った矢が放たれたような感覚はありました。
志ん朝師匠の思い出や教えられたことは、とても語り尽くせませんが、師匠が63歳で亡くなった時は、病気なのは知っていたにせよ「人生、何があるか分からないなあ」という思いでした。私は当時48歳、師匠と同じ63歳で死ぬような気がして、あと15年間は命懸けで落語をやろうと心に決めました。年に1本ずつ噺を身に付ければ15本いけるなと。
ちょうどその頃、体力の衰えを感じたり、のどの病気で声が出なくなったりしたこともあって、筋トレやストレッチに毎朝きっちり取り組み、話芸の幅を広げようと義太夫などを習ったりもしました。滑稽噺より気持ちを入れやすい人情噺にばかり傾倒した時期もあります。自分で勝手に思い詰めてしまって、無愛想で周囲も嫌だったでしょうね。師匠の13回忌の時かなあ、「もういいんじゃないの」っていう師匠の声が聞こえた気がして、やっと解放されたように思います。
楽しかった『おかあさんといっしょ』
――私が志ん輔師匠を存じ上げたのは、『おかあさんといっしょ』の「志ん輔ショー」(1984~99年)でヘビ君・ブタ君とやり合う人形劇です。どういう経緯で教育番組に出演されたのでしょうか。また、落語ファンの裾野を広げる効果はありましたか。
志ん輔師匠 二つ目の時に理科教育の番組に出ていて、そのディレクターが声をかけてくれたのがきっかけです。15年間、楽しかったですよ。子ども向け番組の制作なので、出演者もスタッフも本当に良い人たちばかりでねえ。
でもね、脚本家2~3人が交代で台本を書くんだけど、いかにも予定調和というか「この程度なの?」っていう時もありました。それじゃこちらも気持ちが乗らないので、筋はそのままだけど、セリフを勝手に変えてアドリブで遊んじゃうわけですよ。「プップー」とか「ピンポン!」とか効果音も口で言っちゃったりして。そうすると、脚本家も音声担当も志ん輔に負けてられるかとなるし、美術さんはダンボールの大道具をすぐに作り替えてくれて、互いに現場でやり合って成長したと思いますよ。
私の顔を覚えた子どもたちが、大人になったら寄席に来てくれるかなという期待も少しはありました。まあ、なかなか実際そうはならなかったんだけど、ここ10年ほどでしょうか、楽屋で出待ちしてくれたり、「幼い時にテレビで観てました」というお便りをいただいたり、今頃やっと効果が出てきた感じでしょうか。落語ファンを増やせたかどうかは分からないけど、本当にありがたいことだと思います。
人情噺に見る「人助け」の精神
――私たちAARは「困った時はお互いさま」という精神に基づいて、海外の難民支援や障がい者の自立支援、国内外の被災者支援などの活動に取り組んでいます。平たく言えば「人助け」なのでしょうが、古典落語にもそんな人情噺はありますか。
志ん輔師匠 江戸の人たちは人助けっていう意識は持ってなくて、ごくふつうに助け合っていたんだと思いますよ。江戸は人口100万人の大都市で、その大半を占める八っつぁん、熊さんみたいな庶民は、江戸全体の2割くらいの狭い地域に建ち並んだ長屋で暮らしていたわけです。そんな環境では隣近所が助け合い、譲り合わなきゃ生活できないし、誰かが困っていたら助けるっていうのは、ごく当たり前だったんじゃないでしょうか。
古典落語では、何か悪いことやズルをして最後に失敗するという笑いが多いのですが、人助けとも思わずに良いことをして、それが後になって因果応報として返って来るという人情噺がいくつもあります。例えば『佃祭』『文七元結』『狸の札』あたりがそうですね。佃祭は、奉公先のカネをなくして身投げを図ろうとした女性を助けた男が、数年後、偶然その女性に命を助けられるという話で、サゲは滑稽ですが、「情けは人の為ならず」がテーマです。
江戸の人々というのは世話好きで、とにかく子どもをかわいがるし、好奇心も旺盛だったようです。良いことをしようと思って何かするわけじゃなくて、気になることがあったら頭で考える前に動いたり、ひと声かけたりしたんじゃないでしょうか。コミュニティの中で悪いことをすれば、そこにいられなくなるし、善い行いをすれば自然と居心地も良くなるということだったと思います。
難民問題なんていうと、海外には大変な目に遭ってる人たちがいるってことは知ってても、ちょっと難しくて取っ付きにくいし、自分で何やっていいか分からない。どこかに寄付しても、どういうふうに使われてるのかなって思うし……え、AARは寄付がどう役に立ったか、現地の人の声とか丁寧に報告してくれるの? それなら安心だね。私もAARを応援することにしましょう!
バタバタせずに今を乗り越えたい
――「お笑い」が人気ですが、志ん輔師匠はどのような話芸や笑いを目指しておられますか。特にコロナ禍のような状況にあって、どんな笑いが必要なのでしょうか。
志ん輔師匠 近頃は誰かを揶揄したり落としたり、そうかと思うと変に自虐的なことを言ってみたり、ゴリ押しで笑いを取ろうとする芸人が多いのが気になります。それとSNSの影響もあるのか、芸人が自分のファンを囲い込みたがり、お客の方もひいきの芸人を狭く囲う感じがある。もっといろんな芸を観て、寛容に受け入れたほうがいいよっていう気がします。
私も若い頃は歌舞伎とかクラシック音楽とか、気障だなあと思って、観たことも聞いたこともないのに毛嫌いしてたんですよ。でも、話芸を磨くためにいろんなものを勉強しているうちに面白くなって、FMのクラシック番組を担当させてもらったり、『シェイクスピア落語』に挑戦したりしてね。シェイクスピアの戯曲っていうのは、人間が持つ恨みつらみの感情とか、恋愛やら悲恋やらの要素が全部詰まった芝居の原点なんですね。
有名な『リア王』は王様が3人の娘たちに領地を譲るところから悲劇が起きるんだけど、古典落語にもケチな商人が息子3人に相続する『片棒』という滑稽噺があります。似たような話があるんだって気付いて、『ヴェニスの商人』の舞台を江戸に置き換えてみるとか、創作落語を十数本作りました。まあ、無理やりくっ付けたのもありますが。
今のコロナ禍みたいな時は、落語などの芸能は不要不急の扱いになるわけだけど、そもそも噺家なんて要らないといえば要らない存在なんだから、こんなことでバタバタせず、フラ~ッと乗り越えなきゃと思いますよ。おカネが入って来ないなんて、そんなの分かったうえで落語の世界にいるんだから。
確かに心の底から笑える状況じゃないけれど、ここで逃げちゃいけない。こんな時でも、じっくり聞きたいっていうお客さんは必ずいる。大笑いするだけじゃなくて、人情噺のちょっとした機微でお客さんが笑う。そんな本物の笑いがあればいいなと思っています。
3/25(金)、「新感覚オンライン落語~志ん輔と仲間たち~」オンライン寄席が開催。第12回のゲストは中坪央暁。古典落語×難民支援の奇跡のコラボです。ぜひこの機会にご参加ください。
志ん輔師匠がAARにご来会!以下の予告動画もぜひご覧ください。
ひとこと 小学生の頃、教育実習の大学生に誘われて落語研究会に行ったのがきっかけで、クラスのお楽しみ会では必ず落語をやっていた。『千両みかん』『へっつい幽霊』『初天神』などなぜか上方の演目ばかり、子どもに理解できたはずはないが、雰囲気だけで笑いをとって結構な人気があった。来る3月25日、志ん輔師匠と「古典落語×難民支援」という奇跡のコラボによるオンライン寄席が開かれます。ぜひお立ち寄りを。(N)
中坪 央暁NAKATSUBO Hiroaki東京事務局
全国紙特派員・編集デスクを経て、国際協力機構(JICA)の平和構築事業に従事。東ティモール独立、アフガニスタン紛争のほか、南スーダン、ウガンダ北部、フィリピン・ミンダナオ島など紛争・難民問題を長期取材。2017年11月AAR入職、2019年9月までバングラデシュ・コックスバザール駐在としてロヒンギャ難民支援に携わる。著書『ロヒンギャ難民100万人の衝撃』(めこん)、共著『緊急人道支援の世紀』(ナカニシヤ出版)、共訳『世界の先住民族~危機にたつ人びと』(明石書店)ほか。 (記事掲載時のプロフィールです)