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特別インタビュー Interview

アウトドア通じて広く社会に貢献 辰野勇さん(モンベル会長)

2022年4月1日

朗らかな笑顔でこちらを見る辰野会長

辰野勇モンベル会長(同社提供)

アウトドア用品の総合メーカー、株式会社モンベル(本社・大阪市)は、全国126店舗、スイスと米国に各2店舗の直営店を展開する人気ブランド。創業者の辰野勇会長は「自分たちがほしいものを作る」ことを原点として、登山用具を中心に約4,000点の製品の開発・製造を手がける一方、災害時の被災地支援や環境保全、エコツーリズムを通じた地域活性化など、幅広く社会貢献に取り組んでいる。登山家・冒険家でもある辰野会長に「山で学んだ美学」、社会に発信したいモンベルの理念について伺った。

(聞き手:AAR Japan 中坪央暁/2022年2月9日にインタビュー)


山に居場所を見つけた青春時代

――中学生の時に登山を始められ、高校時代に「山を生業にしよう」と決意したと伺っています。それが約60年後の今日、御社の成功につながっているわけですが、そもそも山にのめり込んだ理由は何ですか。

辰野氏 僕は大阪・堺の寿司屋の末っ子で、両親が働く姿を見て育ちました。子どもの頃はどちらかと言うと病弱でね、小学校高学年の時に金剛山(大阪・奈良県境)の雪中登山という恒例行事があったんだけど、僕は連れて行ってもらえなかったんですよ。ちょうど日本隊のマナスル登頂(1956年)で空前の登山ブームが起きて、『雪山賛歌』が流行った時代です。山男は憧れの存在だっただけに、登山に行けなかったのは子ども心にもコンプレックスを感じました。

中学生になると多少体力がついて、近所の仲間と金剛山に登ったり、キャンプで飯盒炊さんをしたり、自然と山に親しむようになりました。本格的に登山を始めたきっかけは、高校1年の時に読んだオーストリアの登山家ハインリッヒ・ハラーの『白い蜘蛛』です。有名なアイガー北壁(スイス)の初登はんを描いたこの本に触発されて、六甲山系(兵庫県)でロッククライミングに打ち込むようになります。

青く澄み渡った空に雪山が綺麗に見える場所でお茶を入れる会長

スイスツアーでマッターホルンを背景に野点を楽しむ辰野会長=2018年(同社提供)

将来は登山に関わる仕事がしたいという思いが芽生えたのはこの頃です。やりたいことがはっきりして大学進学にも興味がなくなり、両親にも相談せず、高校卒業と同時に名古屋のスポーツ用品店に就職してしまったんですよ。実は憧れの大学もあったのですが、山岳部の人間関係とかシゴキは性に合わないと感じていました。

仕事の合間にひとりで登山を続けましたが、ある時、10歳年上のクライマーを紹介されて意気投合し、一緒に難しい山に挑戦するようになります。その後、大阪の登山用品専門店に移り、登山技術を学べる日本初のクライミングスクールを開校しました。

なぜそれほど登山に夢中になったかと言えば、山に自分の居場所を見付けたからです。僕は勉強が好きじゃなかったし、結構いろんなコンプレックスを抱えていたんだけど、山に行けば心が落ち着く。「俺には山がある」がその頃の僕の口癖でした。人生は居場所探しというか、自分にとって居心地が良い、収まりが良い場所を探す道程なんですね。そういう意味では、若い頃に山に出会えたことは僕にとって幸せだったと思います。

いつか挑戦したいと思っていたアイガー北壁に登ったのは、技術的に自信が付いてきた21歳の時です。今の価値で400万~500万円の資金を何とか工面し、相方と一緒にシベリア鉄道経由でスイスに向かいました。初めて見た瞬間は簡単に登れるような気がしましたが、実際は容易ではなく、あの『白い蜘蛛』と同じように滑落寸前の危機を間一髪で乗り切り、ふたりで頂上に立つことができました。

1969年当時、アイガー北壁登はんの世界最年少記録でしたが、ふたりともそれだけでは満足せず、アイガー頂上から眺めたマッターホルンにその足で向かったものです。登山家っていうのはそんなものなんですよ。

自分たちがほしいものを作る

冬季シーズンのパーカーなどとともに男性職員がいる

登山用品が揃うモンベル品川店

――モンベル創業までの経緯、会社の原点をお聞かせください。

辰野氏 僕は自分で何か作るのが好きで、岩登りを始めた頃も、身近に専門店がなかったのでロープやハーネスを手作りしていました。アイガーに登った後、訳あって登山用品の店を辞めた僕に総合商社の知人が声を掛けてくれて、そこの繊維部門に就職したんですよ。大手繊維会社の繊維素材をスポーツ用品メーカーに生地として売る仕事でした。

ここで製造・流通の川上を経験したのは大きかったですね。僕は登山家だし、専門店で商品を売ったこともあるので、どんな製品が必要とされているかニーズを知っているわけです。製品のアイデアも持っていたので、米国デュポン社が開発した合繊綿に出会った時、軽くてかさばらず速乾性もあって、寝袋に最適だと思いました。

僕はずっと28歳で会社を興すプランを持っていて、1975年の誕生日にお世話になった商社を辞め、大阪市内に小さな事務所を構えました。自営業の家に生まれたので、会社勤めよりも自分で商売をしたいという思いが強かったし、抵抗感もなかったんですね。すぐに山の仲間ふたりが加わってくれて、フランス語で「美しい山」を意味する〝mont belle〟を基に「モンベル」という社名を付けました。

当社のものづくりの原点は「自分たちがほしいものを作る」「好きなことを商品にする」ことです。何が売れるか、どんなものが流行っているかというマーケティング的な手法を僕は信じません。「こういうものがあると良いな」と思って作った製品は、少数でも買ってくれる人がいるし、そのニーズが多ければ自然にヒットします。最初のヒット商品は、前述したデュポン社の合繊綿を使った寝袋です。続いて、ナイロン生地の軽くて丈夫な雨具、簡単に張れる自立式テントなどのロングセラー商品が生まれました。

実は僕の手の指は曲がったままなんですよ。19歳で厳寒期の穂高岳に登った時、質の良くないアクリルの手袋をしていて凍傷になった後遺症です。ですから、安全・快適な登山用品がいかに重要かは身をもって知っているつもりです。

泡しぶきが大きく急流を感じさせる川でカヌーをする会長

奈良・吉野川の急流をカヌーで下る辰野会長=2020年(同社提供)

商品開発に関しては、今も「作ってみたい商品のアイデアがあったらどんどん出すように」と社内で呼び掛けています。当社の社員は大多数がアウトドア派なので、若手社員たちから毎年3,000~4,000件のアイデアが寄せられます。もちろん、実際に商品化されるのはごく一部ですが、モンベルの原点を社内で継承していく効果もあると思っています。

経営面では、商品を問屋さんに卸さず直営店を展開して販売したり、希望小売価格を引き下げる「価格リストラ」を断行したり、有料の会員制度「モンベルクラブ」を設立したりと、さまざまな施策を打ち出しました。僕は企画や計画を考えるのが結構得意で、会社設立当初は30年後を見据えて経営計画を立てましたが、おかげ様で2025年に50周年を迎えるところまで来ることができました。

登山と経営のリスクマネジメント

――ご自身が山で学んできたことは、会社の経営にも生かされているのでしょうか。

辰野氏 「自分で起業して経営するなんて大変でしたね」と言われますが、僕は大学を卒業して、ずっと企業に勤めるというイメージはなかったし、登山と同じで自分が選んで困難に立ち向かう分には、苦痛でも何でもありません。物事を俯瞰的に見て、どんな状況でも楽しめるというのは、長年の山登りで心が鍛えられたからでしょうか。

登山と会社経営はよく似ています。登山で一番重要なのは計画であり、途中で発生し得る最悪の事態を想定して準備する必要がありますが、これは経営においてもまったく同じです。僕もそうだけど、山男というのはとても怖がりで、だからこそ、遭難とか危険が生じた時のことを考えて常にリスクマネジメントするんですね。

登山をする時、登頂できるかどうかの可能性が五分五分の時は登らないけれど、登れる可能性のほうが1%でも高ければ挑戦する。でも、成功が見込めなければ踏み切らないし、無理だと思ったら一度決めても途中で止めることもある。このあたりの見極めというのも、山登りで養われたように思います。

僕は10代で思い描いた通り、山を仕事にしています。ずっと好きなことを続けてきたので、世間でしばしば「好きなことは趣味に留めて仕事にしてはいけない」などと教訓めかして言われる意味が分かりません。米国人の友人から〝Do what you like. Like what you do〟(自分が好きなことをやれ。やっていることを好きになれ)という言葉をもらったことがあるんですが、まさにその通りだと思います。自分が本当にやりたいことを仕事にすれば、やりがいをもって打ち込めるし、それが一番良いんじゃないでしょうか。

被災者支援の「アウトドア義援隊」

――御社は阪神淡路大震災(1995年)の発生直後に「アウトドア義援隊」を立ち上げて以降、災害時の被災地支援に取り組んでおられます。東日本大震災(2011年)に際して、AARの緊急支援物資の調達・輸送にご協力いただき、その後も野外活動用のジャケットのご提供やご寄付を通じて当会の活動を支援してくださっています。

辰野氏 阪神大震災が起きた1月17日、僕は堺にいたんですが、その日のうちに神戸に向かいました。倒壊した建物の下敷きになって亡くなった友人もいて、被災地はまさに修羅場でしたね。多くの方々が家を失って避難している状況を見て、モンベル六甲店を拠点に在庫品の寝袋2,000点、テント約500張などをお配りしたところ、たいへん感謝されました。

肩や胸にAARのロゴが印字されたジャケットを着用して支援物資等を手渡すAAR職員

モンベル提供の赤いジャケットを着て現場で活動するAAR職員
左)東日本大震災の被災者支援(福島県)=2018年、右)ラオスの栄養改善事業=2017年

災害時にアウトドア用品が役立つことに気付いたものの、一社だけでできることは限られています。とっさの思い付きで業界の関連企業やアウトドア愛好家に協力を呼び掛けたのが「義援隊」の始まりです。

この時の経験を通じて、自分たちにできることが見えた気がしました。災害支援では初動のスピードが最も重要です。物品の提供だけでなく、山男は非常時にどう行動すればいいか知っているので、テントの設営や支援物資の運搬、被災家屋からの家財道具の搬出、がれきの片付けなど屋外活動にすんなり対応できるんですよ。山では仲間が遭難して亡くなることもあるので、人の生死と向き合う心構えを持っているという面もあります。

東日本大震災の時は、自分で車を運転して東北地方に向かい、ライフラインが確保された山形県内に拠点を置いて、全国の直営店から送られた300トンを超える支援物資を集積しました。アウトドア用品に加え、食料品や衛生用品などを被災地にお届けしましたが、この際にAARさんともご縁ができたんですね。物資提供だけでなく、がれき撤去のボランティア派遣など約3カ月間、支援活動に取り組みました。

その後もパキスタンやネパールなどの大地震に際して、AARをはじめ現地で活動するNGOに協力したほか、熊本地震(2016年)、西日本豪雨(2018年)、台風19号(2019年)でも物資提供、義援金の贈呈などの被災地支援を実施しています。義援隊は社内に専門部署があるわけではありませんが、社員の有志ボランティアが被災地に向かう場合は特別有給休暇を付与してサポートしています。

こうした経験を踏まえ、当社はアウトドアを基軸とした取り組みとして、災害発生時の支援、防災意識の向上を含む「包括連携協定」を全国92カ所の地方自治体、団体、大学などと締結しています(2022年2月末現在)。災害現場で僕たちにできることは限られていますが、目の前に困っている人がいたら、ひとりを助けるだけでもいい、自分にできることでいいから行動を起こさなければならないと考えています。

エコツーリズムによる地域活性化

――素晴らしい活動をされていると思いますが、いわゆる「企業の社会貢献」について、どのようにお考えでしょうか。

辰野氏 僕は社会的貢献という意識はなくて、被災地支援にしても最初から「アウトドアが役に立つだろう」と意図して動いたわけじゃなく、やってみたら結果的にそうなっちゃったということが多いんですよ。

そもそも企業とは何らかの社会的使命を持った存在であって、職業なり本業なりを通じて社会にどんなサービスを提供できるか、自分の仕事でいかに社会に貢献するかという「ボケーショナル・サービス」が基本だと思います。日本社会には江戸時代の士農工商の考え方が根強く残っているのか、営利目的の「商」の活動を未だに悪いことかのようにみなす感覚がある気がしますが、それはちょっと違うんじゃないでしょうか。

1人用のテントをバックに食事をとる会長

客員教授を務める天理大学の立山登山で=2014年(同社提供)

当社はアウトドアを通じた社会的使命として「7つのミッション」を掲げています。それは、1)自然環境保全意識の向上、2)野外活動を通して子どもたちの生きる力を育む、3)健康寿命の増進、4)自然災害への対応力、5)エコツーリズムを通じた地域経済活性、6)一次産業(農林水産業)への支援、7)高齢者・障害者のバリアフリー実現――です。これは経営戦略というよりも、私自身が思い付くままに書き出してみたらこうなったという自分なりの気付きでもあるんですね。

きっかけは2008年、鳥取県大山町に直営店を出したことです。僕もたびたび登っている大山のふもとに使われていない建物があって、これを活用して出店できないか、町長さんから打診があったんですよ。当社のお客様の多くは東京、大阪など大都市圏にお住まいですが、アウトドアのフィールドは主に地方なので、本来の意味で僕たちが平素お世話になっている地域のお手伝いになればと大山店の出店を決めました。

すると、地元の方々が「町の景色が変わった」「若い人たちが出入りするようになった」とたいへん喜んでくださって、活気を失っていた商店街も復活したというんですね。東京で働いている大山出身の女性が帰省した時、直営店の前を通りかかって「あれ、どうして渋谷や新宿にあるモンベルが大山にあるの? 信じられない、これって偽ブランドじゃない?」と思わずおっしゃったというエピソードがあります。

これを聞いた時、「地元に望まれて進出し、こんなに喜んでもらえるとは、これこそ企業冥利に尽きる。本当にやって良かった」と感じました。この事例を踏まえて、北海道などの過疎地域の町に次々に展開していったわけです。

また、直営店を拠点として自然豊かなお勧めのフィールド「モンベルエリア」「モンベルタウン」を全国100カ所以上に設置し、地元の山小屋やキャンプ場、アウトドア用品店など「フレンドショップ」の皆さんと協力しながら、地域ぐるみでアウトドアを振興する取り組みを進めています。今や100万人を超えるモンベルクラブ会員への特典という意味もありますが、他所からの訪問客が増えることで、エコツーリズムを通じた地元経済の活性化にもつながると考えています。

人それぞれに山の楽しみ方がある

――最後に改めて、ご自身の「山の美学」をお聞かせください。

辰野氏 僕は昔から他の人と比べられるのが嫌いで、大学にも進学せず、ビジネスでも勝ち負けを競うことをあえて避けてきました。それは劣等感の裏返しでもあるんですが、人生の価値観や幸せの形は人それぞれだと思っているからです。

仕事も人生も「こうあらねばらならない」という固定観念を捨てて、自分で考えて決定する。決断する時は正解も不正解もなく、目の前にある状況に対して進む道を選んで、一歩一歩前に進むしかない。人生はそんな選択の繰り返しです。そういうことを僕は山登りを通じて学びました。

若い頃は「自分の力を試したい。人がやらないことをしたい」という欲求が強く、高度な登山技術を駆使し、少人数で生命のリスクをともにしながら険しい山に挑む「アルピニズム」の考えに傾倒し、アイガー北壁などに登っていました。そこで得たものはたくさんありますが、年齢を重ねた今は足元の山野草を愛でたり、趣味の横笛を吹いたり、野点をしたり、仲間たちと自然をゆっくり楽しむようになりました。

山登りを長年続けて気付いたのは、人間は何より生きていること、生かされていることに感謝するのが一番大切であり、その次に自分の心が満足しているかという〝Quality of life〟があるということです。それは経済的な裕福さなどひとつの基準で測れるものではなく、山の楽しみ方と同様に、人それぞれ無数の価値観があるのだと思っています。

僕は10代からずっと好きな山に関わり、それを仕事にして生きてきました。取り立てて高邁な理想を掲げているわけではありませんが、環境保全や地域活性化、災害対応、未来を担う子どもの教育など、アウトドア事業を通じたモンベルの取り組みがよりよい社会の実現に少しでも貢献できるのであれば、これほど嬉しいことはありません。

ひとこと アウトドアには縁がなく、テントで寝たのは人生で2~3回程度。その貴重な1回は、先住民族アボリジニの文化に興味を持って滞在したオーストラリア北部準州。赤い砂漠の真ん中で過ごした夜、地平線までいっぱいの満天の星は今も鮮明に記憶している。登山家・冒険家と呼ばれる人たちのような勇気や情熱は持ち合わせていないが、誰も見たことがない風景を求めて挑戦を重ねるのだとすれば、その気持ちは分かる気がする。(N)

AARはモンベルクラブ・サポートカードの対象団体に選ばれています。AAR Japan(難民を助ける会)サポートカードを作成いただくと、通常のモンベルクラブ会員特典に加えて、お買い上げ金額(税抜)の3%分のポイントがAAR Japanに寄付され、難民支援活動に活用されます。

AARサポートカード ケニアの難民キャンプが広がるそのそrさに、Your action will assist refugees.という文字がある

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中坪 央暁NAKATSUBO Hiroaki東京事務局

全国紙特派員・編集デスクを経て、国際協力機構(JICA)の平和構築事業に従事。東ティモール独立、アフガニスタン紛争のほか、南スーダン、ウガンダ北部、フィリピン・ミンダナオ島など紛争・難民問題を長期取材。2017年11月AAR入職、2019年9月までバングラデシュ・コックスバザール駐在としてロヒンギャ難民支援に携わる。著書『ロヒンギャ難民100万人の衝撃』(めこん)、共著『緊急人道支援の世紀』(ナカニシヤ出版)、共訳『世界の先住民族~危機にたつ人びと』(明石書店)ほか。 (記事掲載時のプロフィールです)

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