絵本の読み聞かせで伝えたいこと 中井 貴惠さん(俳優/エッセイスト)
2022年6月16日
俳優として映画やドラマに数多く出演し、文筆業や絵本の読み聞かせ活動でも精力的に活躍する中井貴惠さん。長年にわたってAAR Japanの活動を応援され、今般のウクライナ緊急支援にもご協力いただいている。2020年から続く新型コロナウイルス感染に加え、世界中で人道危機が相次ぐ今、日々どのようなことを感じているか、読み聞かせを通じて伝えたいメッセージは何かを語っていただいた。
(聞き手:AAR Japan 中坪央暁/5月30日にインタビュー)
子どもは戦争のことを分かっている
――コロナ禍が続く中、ウクライナ人道危機をはじめ、昨年来ミャンマー、アフガニスタンなどで深刻な事態が次々に起きています。本当に大変な時代だと思いますが、この間どんな思いで過ごしておられますか。
中井さん 私たちの業界はコロナで大変なダメージを受けています。人前に出て人前で話してナンボの世界ですから、不要不急という言葉に翻弄されてきました。私たちの仕事は、どちらかというと生活のゆとりの中で成り立っていて、「要するにエッセンシャル・ワーカーじゃないんだな」と思う半面、芝居や映画、コンサートなどを通じて、人々の暮らしに潤いをもたらす仕事をしていることを改めて実感しました。
私たちの読み聞かせ活動は学校訪問ができなくなり、動画のネット配信を導入しました。学校の休校中、自宅にしか居場所がない子どもたちがたくさん観てくれましたが、やればやるほど、やはり子どもたちと直に接したいという思いが募りました。
ウクライナの戦争のことは、日本の子どもたちも連日ニュースを見て、ちゃんと何か感じ取っていると思います。20年来読み聞かせをしている絵本の中に、『ちいちゃんのかげおくり』(あまんきみこ作)という小学校の教科書にも載った物語があって、太平洋戦争中に離れ離れになった家族の姿が描かれています。ウクライナでは今、これと同じことが起きているんですよね。
東日本大震災(2011年)の後、東北の被災地でも読み聞かせをしましたが、子どもたちは「地震や津波は人間の力では防げない」けれど、「戦争を止めて平和を守ることはできる」とはっきり認識していました。私も戦争を経験した世代ではありませんが、読み聞かせを通じて何を伝えられるのだろうかと自問自答する中で、平和の大切さを伝えたり、気付いてもらったりすることはできるんじゃないか、逆に言うと、私たちにできるのはそこまでかなという気がしています。
亡き父を思って臨んだ映画デビュー
――父上は名作『君の名は』『喜びも悲しみも幾年月』などで知られるスター俳優の佐田啓二さん、弟は中井貴一さんという俳優一家のように思えますが、金田一耕助シリーズの映画『女王蜂』(1977年)でデビューしたのは、ご自分が望んだわけではなかったとか。
中井さん 父は私が6歳、弟が2歳の時に交通事故で亡くなりました。田園調布の家には小津安二郎さんのような映画監督や俳優さんたちが日常的に出入りされていましたが、私は芸能界には興味がなく、父の死後はメディアの取材も母が全部お断りしていたんですよ。早稲田大学に進んで普通に学生生活を楽しみ、将来はNHKか民放のアナウンサー、そうでなければ出版関係がいいなと考えていました。
ところが、父の十三回忌の時、ご縁があった出版社から「どうしても写真を撮らせてほしい」という依頼があって、初めて雑誌のグラビアに載りました。それが当時大ヒットしていた映画『犬神家の一族』『獄門島』など金田一シリーズのプロデューサーの方の目に留まり、次作のヒロインにと思い付かれたらしいのです。
父と親しかった笠智衆さんが「息子が東宝のプロデューサーをしていて、ちょっと話を聞いてやってもらえないか」と最初に電話してこられ、追って出演の打診がありました。お断りすることもできないまま市川崑監督にお目にかかって、「私にできるだろうか」と悩み抜いた末に出演を決意したという経緯です。大学2年生、19歳の時でした。
俳優を目指したことも演技を習ったこともないのに、いきなりカメラの前に立たされ、最初は簡単なセリフも満足に言えなくて……。主演の石坂浩二さんをはじめ、超豪華メンバーが勢揃いする中、「あの佐田啓二の娘」として期待されるのは、とてつもないプレッシャーで、何もできない自分のふがいなさに毎晩ベッドで泣きましたよ。
そんな新人の私に、皆さんが懐かしそうに父の思い出話をしてくださって、高峰三枝子さんには特に優しくしていただきましたし、撮影現場で第二外国語フランス語の試験勉強を手伝ってくれたのは岸恵子さん、英語を教えてくれたのは英文科出身の加藤武さんでした。
多くの俳優やスタッフが関わってひとつの作品を創り上げる現場に身を置き、父の仕事がいかに大変だったかを初めて知って、「この映画は亡くなった父に私ができるたったひとつのプレゼントなんだ」と覚悟を決めて撮影に臨みました。
4歳年下の貴一も俳優の道に進み、テレビや映画で元気にやっていますが、父が生きていたら私も弟もこの職業に就いていなかったと思います。けれども、幼い頃から家族以外にもたくさんの人たちに囲まれて育ったことが、自分にとってかけがえのない財産なんだと、子どもを持ってから気付かされましたね。
日々の暮らしをエッセイにつづる
――1987年にエンジニアの男性と結婚して俳優を休業され、その赴任先の米国や札幌で暮らす中で『ニューイングランド物語』『赤毛のアンを探して』『ピリカ コタン』など素敵なエッセイ集を執筆されました。もともと文章を書くのはお好きだったのですか。
中井さん 文章というか、文字を書くのが好きなんですよ。今はパソコンですけど、頭の中で考えたことを原稿用紙に手書きでどんどん書いていくのが苦にならなくて。直接のきっかけは、夫の研究に同行して、米国北東部ニューハンプシャー州の信号機が3つしかない田舎町に住んだ時、東京の月刊誌編集部から「日本に手紙を送るつもりで米国での生活を書いてみませんか」と連載を依頼されたことです。それなら書けるかなとお引き受けし、1年分の連載をまとめたのが最初の一冊になりました。
その後も日々の暮らしや子育ての中で思うことをエッセイに書き留め、何冊か出版する機会をいただいています。素直で読みやすい文章ですって? 本当ですか(笑)。まあ、難しいことは何も書いていませんからね。
翻訳の仕事もあります。子どもたちが大好きなロシア民話『おおきなかぶ』は、日本でも定番の絵本がありますが、アイルランドの絵本作家ニーアム・ジャーキーの英訳を基に数カ国語に翻訳するプロジェクトがあって、私が日本語版を担当しました。
イラストがとても楽しい絵本で、おじいさん、おばあさんの他に牛や豚、猫、めんどり、ガチョウ、カナリア、そしてネズミが登場します。言葉遣いや擬音語をいろいろ工夫しましたが、カブを引っ張る掛け声は、やっぱり「うんとこしょ!どっこいしょ!」じゃなきゃダメという娘の意見に従って、その通りにしています。
一冊の絵本との衝撃的な出会い
――1998年に「大人と子供のための読みきかせの会」を結成し、ボランティアで朗読会、朗読と音楽を組み合わせた「音語り」などの活動に取り組んでおられます。読み聞かせを始めたきっかけは何ですか。
中井さん 米国から帰国後、夫が勤務する札幌で長女を出産しましたが、子育てって本当に大変なんですよ。家事は溜まる一方だし、原稿の締め切りもあったし……疲れ切っているところに、娘が毎晩、「これ読んで」と絵本を持って来るんですね。同じ絵本を繰り返し聞いて何が面白いんだろうと思いつつ、早く寝かしつけるために読んで聞かせていました。時々ページを読み飛ばしたりして。正直言って、絵本は子どもを寝かせるための「道具」に過ぎませんでした。
ところが、娘の5歳の誕生日、私が幼少時代に通っていた幼稚園の先生から、娘宛てに誕生日プレゼントとして一冊の絵本が贈られてきたんです。『つりばしゆらゆら』(もりやまみやこ作)という作品で、絵本といっても物語が書き込まれた少し厚めの本なんですね。
娘は大喜びしましたが、読んでみて「えっ?」と衝撃を受けたのは私の方で……どんな話かはご自分で読んでいただきたいのですが、自分が子どもだった頃のこと、母が一生懸命してくれたことを思い出して、何だか心の中をえぐられるような気がしました。
この時初めて、絵本は子どもだけのものじゃないんだ、子育てに追われるお母さんたち、大人たちに向けた素晴らしいメッセージがあるんだと気付かされました。それまで嫌々やっていた読み聞かせですが、私は俳優として映画やドラマで演じていたのだし、物語を読むのは好きだったので、大人と子どもに自分の声で絵本を読んで聞いてもらうのはどうだろうと思い立ったのです。朗読に音楽の演奏を付けられたら素敵だなと。
その後、夫の転勤で東京に戻って暮らし始めたある日、幼なじみの女性から「幼稚園の母親向けに子育て体験を話してほしい」と頼まれたんですよ。私はこの手の講演が苦手なので、「講演の代わりにこんなことできない?」と温めていたアイデアを提案したところ、その友人が「じゃあ、私がピアノ弾こうか」と言ってくれて、すぐに物語に合わせた曲まで作ってくれました。
さらに、幼い子どもたちが飽きずに楽しめるように、絵本を模造紙いっぱいに拡大した「大型絵本」を作ることになり、これも手伝ってくれる知人がすぐ見付かりました。ほとんど舞台装置みたいなもので、いろいろ工夫して手作りしているんですよ。
幼稚園で開いたピアノ演奏付きの『つりばしゆらゆら』の読み聞かせ初公演は、子どもたちだけでなく、お母さんたちからも「感動して涙が出た」という声が聞かれるなど大好評でした。私が考えたことは間違っていなかったと大きな手応えを感じ、これが会の活動の原点になっています。
小津作品を独りで演じる朗読劇
――幼稚園や小学校でのボランティアの読み聞かせに加えて、大人向けの作品もあると伺っています。
中井さん 私たちは当初から子どもだけでなく、子育て中のお母さんなど大人の方にも聞いてほしいと考えて、「子どもだけではやらない。ぜひ大人も観てほしい」と呼び掛けていました。すると、ある時期から大人の参加者のほうが増えて、それなら大人向けの題材を選んで公演をすればいいのではないかと考えたわけです。映画化もされた『あらしのよるに』(木村裕一作)の朗読とジャズのピアノ演奏を合わせて、ライブハウスでお酒付きで上演したところ好評で、大人が楽しむものも創れるんだと自信を持ちました。
2009年からは、子どもの頃にかわいがってくれた小津監督の作品を朗読劇にした音語り『小津安二郎映画を聞く』を続けています。「小津組」のプロデューサーだった山内静夫さん(2021年死去)が、小津映画のシナリオを朗読用の台本に短く書き直してくださって、『晩春』『東京物語』『秋刀魚の味』などの名作を、ト書きを含めて私が全部独りで語る舞台です。あの俳優さんだったらこんな感じかなと、思いを込めながら演じています。
これまで全国各地で上演してきましたが、小津監督の生誕120年にあたる来年(2023年)は、さまざまな記念イベントが計画されています。この機会に改めて小津作品の素晴らしさを多くの方に伝えていければと思っています。
寄付を通じて社会とつながる
――2007年にAARの地雷廃絶イベントで絵本の朗読をしていただいて以来のご縁です。当会のどういう点に共感していただいているのでしょうか。
中井さん 平和を目指す活動の趣旨に賛同して、柳瀬房子AAR現名誉会長が書かれた絵本『地雷ではなく花をください』を朗読しました。世界から地雷をなくそうと訴える素晴らしい絵本で、子どもたちにもとても分かりやすい作品ですね。六本木ヒルズの屋外ステージでしたが、風が強くて大変だったことを覚えています。
大人向けの公演は別ですが、私たちの読み聞かせの会の活動はボランティアとして行っていて、その代わり募金箱を置いて、あくまで任意でお気持ちを頂戴しています。これは大型絵本の材料代、交通費など最低限必要な経費に充てさせていただいていますが、俳優の仕事でもらっていたギャラとは全く違って、たとえ100円でもすごく重みを感じるんですよ。どんな気持ちで入れてくれたんだろう、楽しんでもらえたかなと。
多めに募金をいただいた時は、それを社会貢献に取り組む団体に寄付して役立ててもらえば、私たちの活動がもっと社会とつながり、そこに新たな意味を見出せるんじゃないかとメンバーと話し合って、私たちなりの志を掲げました。今回のウクライナ支援の寄付も、イベントの募金としてお寄せいただいたものです。
寄付先を検討した時、寄付がどう使われたか、どう役立ったかを丁寧に報告してくれて、より身近に感じられる団体を選びたいと考えました。私たちが公演でいただいた、皆さんの思いが込められた募金を託すのですから、私たちにも大きな責任があります。
海外の難民や障がい者支援、東日本大震災などの被災者支援に取り組むAARには、信頼してご寄付をお贈りしています。ウクライナもそうですが、職員の方が実際に現地に行って支援活動をされていることに共感しますし、今後も応援していきたいと思います。
明るい未来を次世代に伝えたい
――俳優や文筆業、読み聞かせは、形態は違っても、いずれもご自身の思いを表現する手法のようにお見受けします。「表現者」として世の中の大人たち、とりわけ次の世代を担う子どもたちに伝えたいメッセージは何でしょうか。
中井さん 私も子育てを経験した立場で、少子高齢化の今日、子育てに日々奮闘するお母さんやお父さんたちがちょっと息抜きできたり、物語を通じて何か気付いたりできるような、そんなメッセージを送りたいと考えています。
私自身、一冊の絵本との出会いから生まれた感動と驚きから、その後の活動が始まりました。「何か始めたいけど、どうすればいいか分からない」という女性たちの声を聞きますが、私は絵本の感動を多くの子どもや大人に届けたいと、ひたすら思ってやってきました。迷っている方には「何かをしなければ何も始まらない」とお伝えしたいですね。
そして、子どもたちには明るい未来を信じて生きてほしいと願っています。最近は「大丈夫だよ」とばかりも言っていられないことが多くて、正直言ってちょっと心配ですが、あなたたちが暮らす日本も世界も本当は素晴らしいんだよ、必ず希望を実現できる未来があるんだよと言ってあげたい。大人にも子どもにも、そんな前向きなメッセージを伝えていければと思っています。
ひとこと 田園調布駅前の並木道に小さな郵便局がある。中井さんのエッセイ集『父の贈りもの』に、中井さんが生まれた時、父・啓二さんが大喜びで「美女生まれた親子無事」と小津監督宛てに電報を打ったという逸話があり、それを30年後に「もう時効だから」と手紙で教えてくれたのは、窓口で対応した当時の女性局員だった。電報というのが時代を感じさせるが、そんな何気ない記憶の断片が愛おしい昭和の情景をリアルによみがえらせる。(N)
中坪 央暁NAKATSUBO Hiroaki東京事務局
全国紙特派員・編集デスクを経て、国際協力機構(JICA)の平和構築事業に従事。東ティモール独立、アフガニスタン紛争のほか、南スーダン、ウガンダ北部、フィリピン・ミンダナオ島など紛争・難民問題を長期取材。2017年11月AAR入職、2019年9月までバングラデシュ・コックスバザール駐在としてロヒンギャ難民支援に携わる。著書『ロヒンギャ難民100万人の衝撃』(めこん)、共著『緊急人道支援の世紀』(ナカニシヤ出版)、共訳『世界の先住民族~危機にたつ人びと』(明石書店)ほか。