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スタッフ日記[国際協力の現場から]

9.11から20年~アフガニスタンの現状に寄せて

2021年9月10日

あの日、自分がどこで何をしていたかを世界中の人々が覚えている出来事は滅多にないが、2001年9月11日、いわゆる「9.11米国同時多発テロ事件」はそのひとつではないだろうか。あれから20年後の今日、アフガニスタンの現実を目の当たりにして、複雑な思いを抱いている人は少なくないと思う。

(AAR Japan 中坪央暁)


AAR Japan[難民を助ける会]は1999年、アフガニスタンで地雷除去支援を開始し、2001年には「9.11」とそれに続く米英軍の空爆を受けて、隣国パキスタンとタジキスタンでアフガニスタン難民支援を始めました。2002年に首都カブールに事務所を開設し、地雷対策と地雷被害者を含む障がい者支援に取り組んでいますが、2008年以降は安全上の理由から日本人駐在員を置かず、アフガニスタン人職員が東京本部事務局の指示の下で活動を継続してきました。しかし、今年8月の政権崩壊による混乱で、その活動は一時停止を余儀なくされています。AARはアフガニスタンにいる現地職員の安全を確保したうえで、増え続ける国内避難民への支援を開始するべく情報収集を続けています。

20年前のこの日の夜、新聞社の東南アジア特派員だった私は、CNNが伝えるニューヨークの映像に目がくぎ付けになった。超高層ビルが炎上する光景は映画か何かにしか見えず、しかし、2機目の旅客機が突っ込むのを見て、ようやく何が起きているかを悟った。ほどなくして東京本社から国際電話が入り、速やかにパキスタンに飛んで、アフガニスタン国境に張り付くよう指示された。1週間後にアフガニスタン難民が滞留するパキスタン北西部のペシャワールに着き、次いで中西部クエッタなどを巡回取材しながら越境の機会を待った。

米国政府は「9.11」を国際テロ組織アルカイダによる犯行と断定し、指導者ウサマ・ビンラディン(2011年5月に米軍が殺害)をかくまうアフガニスタンのタリバン政権に対する空爆を10月7日に開始するとともに、反タリバンの軍閥で構成する北部同盟軍の地上戦を後押しした。

1カ月余り後の11月13日、首都カブールが陥落してタリバンは地方に撤退。私は18日にようやく同僚のカメラマンとペシャワールから陸路カイバル峠を越えてアフガニスタンに入り、北東部ジャララバードで馬小屋のような安宿に一泊した後、19日カブールに到着した。山岳路の途中には破壊された旧ソ連軍の戦車が空しく放置されていたが、山々の風景は息をのむ美しさだった。私たちは幸い無事に通り抜けたが、相前後して同じルートを通った外国人ジャーナリスト数人が何者かに殺害される事件もあった。

タリバンが撤退したカブールは権力の真空状態にあり、市街中心部のバザールは意外に品揃えも豊富で活気に満ちていた。商店主の男性は「タリバンはイスラムの名の下で我々を抑圧してきた。我々は今、自由を手に入れた」と晴れやかな表情で話した。11月のカブールは肌寒く、冬着を用意していなかった私は古着のセーターを買った。

娯楽を禁じたタリバン政権下で閉鎖されていた映画館は5年ぶりに再開し、男性たちが文字通り群がるように殺到していた。国営テレビに若い女性キャスターが登場し、女性抑圧の象徴とされた青いブルカを脱ぎ捨てる若い女性もいて、ブルカを被ると視界はどうなるのか尋ねた私に物陰で試着させてくれる余裕さえあった。乾いた青空には、同じく禁じられていた凧がいくつも舞っていた。

その一方で、1979年の旧ソ連軍の侵攻以降の紛争、米英軍による空爆などで多くの建物が崩壊し、市街地は荒廃しきっており、丘の上に建つ国際ホテルの窓ガラスはすべて割れていた。アルカイダの軍事キャンプとされる場所は徹底的な空爆で掘り返され、アラビア語の紙片が散乱していた。北部同盟軍の倉庫には遺棄されたAK自動小銃やロケット砲、地雷などが山積みされていた。米軍の誤爆で幼い子ども2人を亡くした38歳の父親は、「タリバンも米軍も憎い敵でしかない」と肩を震わせた。

市民の大多数がタリバン支配の終えんを喜ぶ中、ようやく探し当てたタリバンの元兵士(27歳)は「内戦に苦しむ同胞を助け、祖国を再建しようという聖職者の呼び掛けに応えてタリバンに加わった。イスラムの教えを追究し、腐敗をただそうとする純粋な集団だった」と話した。女性の権利抑圧、少数民族弾圧など負の側面が強調される一方で、「タリバンの統治で治安が回復した」「タリバン時代はそれなりに商売も順調だった」という声も少数ながら聞かれたのが強く印象に残った。

北部同盟軍を率いてカブールの王宮に入城したラバニ前大統領は、私の単独インタビューに「すべての民族と政治勢力を結集した連合政権を樹立し、国土の復興を図りたい。友人である日本の支援に期待する」と語り、その後のカルザイ政権下ではタリバンとの和解交渉を担当していたが、2011年9月にタリバンによる自爆攻撃で暗殺された。

アフガニスタンに私が直接関わったのは、この時だけだが、カイバル峠からカブールに至る山岳路の風景、首都カブールの惨状、戦乱の中でしたたかに生きる人々の不思議な明るさは、今も鮮明に記憶している。その後、アフガニスタンの人々が平和と安定を確立しようとする取り組み、日本を含む国際社会の復興支援をフォローしながらも、紛争が常態化した国家を再建するには気が遠くなるような時間と労力が必要であり、あるいは無理ではないかという暗い予感が常にあった。

縁あってAAR Japanに入職し、アフガニスタンでの地雷回避教育や障がい児の就学、災害支援などの地道な取り組みが、現地で高く評価されていることを知った。現在は広報担当としてアフガニスタン事業を側面からサポートし、現地から時折届くレポートを通じて、直接会ったこともない現地職員が厳しい環境で活躍する様子を垣間見ていた。そんな中で今夏、同国は再び大混乱に陥ってしまった。

米軍を主力とする駐留外国軍の撤退に伴って、カブールが瞬時にタリバンに奪回されることは、バイデン大統領がいかに正当性を強弁しようと、米国情報機関は早々予見していたとされる。外国政府・機関で働いていたアフガニスタン人職員が抑圧を恐れて次々に退避する中、日本政府が派遣した自衛隊機は、大使館や国際協力機構(JICA)、NGO職員など約500人の退避希望者を救出できなかった。

日本人と一緒にアフガニスタンの復興・平和構築に従事してきた現地協力者の中で、退避を希望するすべての人々が家族とともに安全に出国し、あるいは日本に入国できることを切に願うとともに、これまでの努力が水泡に帰すことがないよう、人道支援活動の継続が保障されることを祈っている。日本のひとつのNGOに過ぎないAAR Japanにできることは限られているが、東京事務局と現地職員が今も昼夜連絡を取り合って、よりよい方策を模索している。今すぐには動けないとしても、何かができる日は、たぶんやって来る。

20年前のあの日、世界の風景は一変した。20年経った今、アフガニスタンは昔に逆戻りした。何がいけなかったのか、誰が何を間違えたのかを論じるほどの専門的知見は持っていないが、アフガニスタンの人々を見捨てないために、それぞれの立場で何ができるかを考えるのが、同時代に生きる私たちのせめてもの務めではないかと思う。

AAR Japanは現在、国外退避を希望する現地職員と家族への支援を日本政府に要請するとともに、国内避難民に対する緊急物資の配付など人道支援活動の再開に向けた準備を進めています。AARのアフガニスタン事業へのご理解・ご協力を重ねてお願い申し上げます。

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中坪 央暁NAKATSUBO Hiroaki東京事務局

全国紙特派員・編集デスクを経て、国際協力機構(JICA)の派遣で南スーダン、ウガンダ北部、フィリピン・ミンダナオ島など紛争復興・平和構築の現場を長期取材。新聞社時代にはアフガニスタン紛争、東ティモール独立、インドネシア・アチェ紛争などをカバーした。2017年11月AAR入職、2019年9月までバングラデシュ・コックスバザール駐在としてロヒンギャ難民支援に従事。著書『ロヒンギャ難民100万人の衝撃』(めこん)、共訳『世界の先住民族~危機にたつ人びと』(明石書店)ほか。栃木県出身

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