ミャンマー中部で今年3月に発生した大地震の被災者の中には、多くの障がい者がいました。地震から3カ月以上が経った7月中旬、特に被害の大きかったマンダレー市、ザガイン市を駐在員が訪れ、障がい当事者や支援者から直接話をうかがいました。そこには、障がいを抱えて災害を生き抜く困難や苦悩だけでなく、日本のみなさんと変わらない障がい当事者への家族の愛情や支援者の深い思いがありました。ミャンマー駐在代表の山本慶史が報告します。

3ヶ月経っても地震の爪痕が残るマンダレー市内=2025年7月
生きていてくれるだけで十分
「地震が起きた時、3人の娘は仕事で家にいませんでした。私は怖くて、ベッドの上で何もできずにいました」。マンダレー市の郊外、木造2階建ての質素な自宅で、右半身麻痺の障がいがあるドゥムムさん(仮名、70歳)が震災当日の様子を話してくれました。二度目の大きな余震があったのち、2人の娘が慌てて帰宅。ほぼ寝たきりのドゥムムさんは、歩行器を使い、ようやく外に逃げることができたそうです。
私は、娘たちに障がいのある母親のケアの大変さを尋ねました。すると皆さん、「地震の時は本当に心配だった。でも、こうして生きていてくれるだけで十分。他に何も望むものなどありません」と、口をそろえました。「私たちをここまで育ててくれた母の面倒を見るのは、当たり前のことです。大変だなんて思ったことは一度もありません」。そう話してくれました。
一家の収入は、3人の娘たちが近所の人たちの衣服を洗濯して得るわずかなお金だけ。現金給付支援として当面の生活費となるお金を手渡すと、丁寧に感謝の気持ちを伝えてくれました。また、日本は戦時中、ミャンマー(ビルマ)まで侵攻した歴史がありますが、この地域で、日本人を目にするのは初めてと驚かれました。「子どもの頃、日本は怖いと思っていたけれど、あなたたちは違う世代だから信じられますよ。本当に来てくれてありがとう」。ドゥムムさんからは、優しく声をかけられました。

ドゥムムさんから、震災時の様子について聞く山本慶史(左)=2025年7月、ミャンマー・マンダレー市内で
支援を必要とする人や子どもを助けたい
また、マンダレー市の知的障がいや身体障がいのある児童約20人が利用する障がい児福祉支施設も訪問しました。時に借金をしながら、私費を投じて施設を運営するドゥティーダさん(仮名、42歳 )の表情は悲しげでした。資金難に震災が追い打ちをかけ、来年以降、月2万6000円の賃料を支払う目途が立たなくなりました。「地震で、ビルの内壁がひび割れてしまいましたが、直すお金もありません。子どもたちやスタッフのためにも新しい場所を探すしかありませんが、もうこれ以上借金もできません」と、涙をこらえきれませんでした。施設の5人のスタッフの中には、大学で修士を取った人もいますが、被災した町で学位を生かした職を見つけるのは極めて困難だそうです。
絶望的な状況下で、なぜドゥティーダさんは借金をしてまで施設を運営するのか。「誰がいつ障がい者になってもおかしくない。他人事ではないんです」と、答えました。「障がい者だから、ではなく、支援を必要とする人や子どもを助けたいと思うのは、人の道ではないでしょうか。人として当たり前のことをしたいだけなんです」。

ドゥティーダさんの施設内に掲示されていた支援教材。トイレの使い方や服の着替え方が分かりやすく表示されていた=2025年7月、マンダレー市内で
被災地を訪れ、人の心に国境はなく、先進国も途上国もないと感じました。地震で建物は壊されても、人を想う心までは簡単に打ち砕かれることはないのです。日本ではネガティブなニュースが報じられがちなミャンマーですが、私たちが直接訪れて、話を聞いた被災地は、人としての温もりにあふれていました。



