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活動レポート Report

「日本に来てほっとしています」:ウクライナ避難民のヴィクトリアさん(前編)

2022年8月22日

ロシアのウクライナ軍事侵攻が始まって半年、日本には1,666人(8月14日現在)のウクライナ避難民の方々が滞在しています。AAR Japan[難民を助ける会]と社会福祉法人さぽうと21は、ウクライナを含む来日難民・避難民の生活を支えるために、緊急一時金の支給を行っています

ウクライナから4月に来日し、この制度を利用したヴィクトリアさん(21歳)が、軍事侵攻下での経験、日本で生活を始める難しさなどを語ってくれました。日本の方々へのビデオメッセージも含め、2回に分けて紹介します。

若い女性

インタビューに答えるヴィクトリアさん

看護師の母、軍人の父を残して

――ヴィクトリアさんは弟のアルテムさん(17歳)と2人で来日し、日本で生活を始めました。日本に来るまでのことを教えてください。

私たちは、4月9日に日本に到着しました。日本は安全で、本当にほっとしています。私は日本語を勉強していますが、日本に来たのは初めてです。私たち家族は首都キーウ(キエフ)に住んでいました。私は大学院の修士課程で日本語を専攻していました。また、私立学校で英語と日本語を教えたり、家庭教師をしたりしていました。時々、翻訳や通訳の仕事もしていました。

母は看護師です。父は発電所の仕事をしていましたが、2年前にウクライナ軍に加わりました。戦闘の厳しい東部で戦っていました。今は違う場所で戦っています。弟のアルテムは高校を卒業したばかりで、最近17歳になりました。ウクライナでは義務教育は11年で、アルテムはちょうどウクライナの大学に入るタイミングでした。でも18歳になると男性はウクライナを出国できなくなるので、私と一緒に日本に来ました。

朝5時の爆発音でパニックに

――軍事侵攻が始まった時は、キーウにいたのですか。

そうです。2月24日、朝5時に起きると、バーンというか、ボーンというか、大きな音がたくさんして、驚きました。最初はゴミ収集車が何かで爆発したかと思ったんです。でも母の寝室にいくと、ベッドの上にかばんがあって、荷物がいっぱいあって、私や弟のパスポートなど、いろんな書類が用意してあって、その時、「ああ戦争が始まったんだ」と思いました。

怖かったです。本当に怖かったです。最初はどうしたらいいか、全然分かりませんでした。父はもう東部戦線にいたので、ものすごく心配でした。その父から電話があって「私は大丈夫だ。キーウは今、一番安全なはずだが、もし危ない状態になったら、みんなで車で西か外国に向かうように」と言われました。

でも、もう道路は逃げようとする人たちの車でいっぱいでした。それに私と母は、車の運転免許を取ったばかりでした。こんな状況で遠くまで上手く運転して逃げられるのか、とても不安でした。それでしばらく家でじっとしていました。

次の日の朝5時ごろ、突然、空襲警報が鳴りました。私たちは飛び起きて、猫を連れて、近くの病院の地下に避難しました。そこは人でいっぱいで、とても暑かったです。外はマイナス10度ぐらいなのに、人が多すぎて暑かったんです。子どもたちは泣いていて、猫や犬もたくさんいました。私も母も自宅にいた方がいいのかも、と考え、家に戻りました。

若い男性

ヴィクトリアさんを見守る弟のアルテムさん

「弟を連れて外国に逃げなさい」

――自宅は一軒家ですか。

アパートの9階です。まず、爆風で窓が割れないように、夜に灯りが外にもれないように、窓に紙や段ボールを貼りました。毎日、毎日、何度も何度も警報がなり、私たちはずっと廊下にいました。ベッドのマットレスを置いて、夜はそこで眠りました。

スーパーにもお店にも食べ物がなくなりました。でも、母がたくさん食料を買い込んでいたので、私たちは食べ物には困りませんでした。母はそうやって私たちを守ってくれました。ただ、母が病気のために飲んでいた薬が足りなくなってしまいました。薬局にもなくて、最後には1時間以上並んで、やっと手に入れることができました。

日に日に暮らしは厳しくなりました。じっとしている以外に、できることは何もありません。外国ならばもっと安全に暮らせて、勉強もできます。それに弟のアルテムは17歳の誕生日が迫っていました。今のウクライナの法律では、18歳~60歳の男性はウクライナから出国できませんが、その法律を変更して、17歳から出国できなくするという情報が流れていました。だから、早く外国に行こうと決めました。お母さんは「私はお父さんを待っている。あなたは弟を連れて、外国に逃げなさい」と言いました。

道路にバナーが掲げられている

「ともに行こう、真実に向かって」とウクライナ語で呼び掛けるバナー。軍事侵攻が始まって半年、市民を含む多くの生命が失われている(ウクライナ西部)

たった一人の知人を頼って

――なぜ日本を避難先に選んだのですか。

私は日本語を勉強していました。外国に住むためにはお金と仕事が必要です。言葉も必要です。それに私は、できれば日本語の勉強を続けたいと思いました。だから、日本語を使う仕事をしながら、日本の大学に通えないかと考えました。そこで日本の大学10校にメールを送りました。3通だけ返事がありましたが、いずれも「日本人と同じ試験を受ける必要がある」などの回答で、すぐには受け入れてもらえませんでした。

私たちはキーウで教会にも通っていたので、日本にある教会にも連絡してみました。しかし「手伝うことはできません」という返事でした。通っていた大学の先生にも、日本に受け入れプログラムがないか聞きました。先生も忙しくて「ごめんなさい、分からない」と言われてしまいました。

――日本の大学や大学院の受け入れ準備が整ってきたのは、新学期が始まった4月以降のことです。苦労されたのですね。

私は一時期、ウクライナにあるビジネスホテルで、通訳の仕事をしていました。その時に知り合った日本人の女性から、「何か私にできることはない?」とメールをもらいました。私が「日本には避難者のためのプログラムがあるか」と聞くと、彼女は「あります。私が身元保証人になるから日本にいらっしゃい」と言ってくれました。

彼女の言葉を頼りに、3月25日、ポーランドのワルシャワに向かいました。日本のビザを取る手続きのため、2週間ほどポーランドにいました。最初は避難者用の無料のホテルに入りましたが、ウクライナからどんどん新しい人が来るので部屋が足りなくなり、ホテルの空いた部屋を探して6,7回、宿を転々としました。ワルシャワ、オルシュテン、クダニスク、またワルシャワ。私たちは50キロの荷物を2つ、20キロぐらいのかばんを2つ持っていたので、とても大変でした。いつも手が真っ赤でした。

後編はこちら

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